東京地方裁判所 昭和61年(ワ)2679号 判決 1988年4月22日
甲、丙事件原告
馬場トシ
ほか二名
乙事件被告
裕大設備株式会社
甲事件被告(乙事件原告)
小幡昭夫
甲事件被告
大東京火災海上保険株式会社
丙事件被告
日動火災海上保険株式会社
主文
(甲、丙事件)
一 原告馬場トシ、同馬場真粧美及び同馬場純一の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
(乙事件)
一 被告は原告に対し一七三万八二〇三円及び内一五八万八二〇三円に対する昭和六一年五月一八日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを五分し、その一を原告の、その余を被告の各負担とする。
四 この判決は一項に限り仮に執行することができる。
事実
第一当事者の求める裁判
(甲、丙事件)
一 請求の趣旨
1 被告小幡昭夫(以下「被告小幡」という)は、原告馬場トシ(以下「原告トシ」という)に対し一七七六万七七五〇円、同馬場真粧美(以下「原告真粧美」という)及び同馬場純一(以下「原告純一」という)各自に対し八八八万三八七五円及びこれらに対する昭和六〇年一一月二一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
2 被告日動火災海上保険株式会社(以下「被告日動火災」という)は、原告トシに対し四一二万五〇〇〇円、同真粧美、同純一各自に対し二〇六万二五〇〇円並びにこれらに対する昭和六一年六月二六日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
3 被告大東京火災海上保険株式会社(以下「被告大東京火災」という)は、原告らの被告小幡に対する本件判決が確定したときは、原告トシに対し一七七六万七七五〇円、同真粧美及び同純一各自に対し八八八万三八七五円並びにこれらに対する右各判決確定の日の翌日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
4 訴訟費用は被告らの負担とする。
5 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
(乙事件)
一 請求の趣旨
1 被告は原告に対し一九三万四六七〇円及び内一七六万四六七〇円に対する昭和六一年五月一八日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
第二当事者の主張
(甲、丙事件)
一 請求原因
1 事故の発生
昭和六〇年一一月二一日午後九時ころ、東京都多摩市貝取一七五四番地先の信号機により交通整理の行われている交差点(以下甲、乙、丙事件を通じて「本件交差点」という)において、訴外馬場保博(以下同じく「保博」という)運転の普通貨物自動車(多摩四四と八二〇七、以下同じく「X車」という)と被告小幡運転の普通乗用自動車(多摩五八に六八八七、以下同じく「Y車」という)とが衝突し、保博が死亡した(以下同じく「本件事故」という)。
2 責任原因
(一) 被告小幡はY車を所有し、自己のため運行の用に供していたものであるから自動車損害賠償保障法(以下「自賠法」という)三条により、本件事故により生じた損害を賠償すべき責任がある。
(二) 被告日動火災は、被告小幡との間でY車につき本件事故を保険期間内とする自動車損害賠償責任保険(以下「本件自賠責保険」という)契約を締結していたものであるところ、同被告に右一のとおり自賠法三条の保有者責任が成立するから、同法一六条一項により、政令の定める保険金額の限度(二五〇〇万円)において被害者に対し損害賠償額を支払うべき責任がある。
(三) 被告大東京火災は、被告小幡との間でY車つき本件事故を保険期間内とし、保険金額を一億円とする自動車保険(以下「本件任意保険」という)契約を締結していたから、右保険約款により本件事故につき同被告が負担すべき損害賠償額が確定したときは、保険金額の限度で右賠償額を被害者に支払うべき責任がある。
3 損害 三五五三万五五〇〇円
(一) 葬儀費用 一〇〇万円
(二) 逸失利益 三六三〇万五〇〇〇円
保博の昭和六〇年度の賃金収入は四四三万六六三七円であつたから、これを基礎収入とし、就労可能年数一八年(同人は死亡当時四九歳)、生活費控除率三〇パーセント、中間利息控除につきライプニツツ方式を各採用して同人の得べかりし利益の現価を算定すれば、次式のとおり三六三〇万五〇〇〇円となる。
四四三万六六三七円×〇・七×一一、六九〇=三六三〇万五〇〇〇円
(三) 慰藉料 二〇〇〇万円
(四) 弁護士費用 三二三万〇五〇〇円
(五) 損害の填補
本件事故により保博が死亡したことによつて生じた損害総額は前記(一)ないし(四)の合計六〇五三万五五〇〇円となるところ、自賠責保険からの損害填補金一七五〇万円を控除すると残存損害額は四三〇三万五五〇〇円となる。
(六) 被告らに対する本訴請求の内訳
原告トシは保博の妻、同真粧美及び同純一は子であるから、法定相続分に従い前記損害賠償請求権を相続により取得しているものであるが、被告らに対する請求の内訳は次のとおりである。
(1) 被告日動火災に対しては、自賠責保険の限度額二五〇〇万円と既払分一七五〇万円(過失相殺三割が行われたものであるが保博には過失はない)との差額である七五〇万円に弁護士費用七五万円(民法七〇九条)の合計八二五万円
(2) 被告小幡、同大東京火災それぞれに対しては、前記(五)の残存損害額から右(1)の被告日動火災に対する請求額を控除した三五五三万五五〇〇円
(3) 右(1)、(2)を原告らそれぞれの法定相続分に従つて請求する。
4 よつて、被告小幡に対し、原告トシは一七七六万七七五〇円、同真粧美及び同純一は各自八八八万三八七五円並びにこれらに対する本件事故の日である昭和六〇年一一月二一日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の各支払を、同被告に対する本件判決の確定を条件として被告大東京火災に対し、右同様の金員(ただし、遅延損害金の起算日は右判決確定の日の翌日)の支払を、被告日動火災に対し、原告トシは四一二万五〇〇〇円、同真粧美及び同純一は各自二〇六万二五〇〇円並びにこれらに対する前記既払分支払日の翌日である昭和六一年六月二六日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1の事実は認める。
2 同2は認める。ただし、後記のとおり本件事故については責任を争う。
3 同3は、(五)の自賠責保険からの填補額が一七五〇万円であること、(六)のうち原告らと保博との身分関係は認めるが、その余は不知ないし争う。
4 同4の主張は争う。
三 免責の抗弁
本件事故は、保博が自己の対面信号が赤色を示しているのにこれを無視して本件交差点に進入した一方的な過失に基づくものであり、青色信号に従い時速四〇ないし五〇キロメートルの速度で進入した被告小幡には何らの過失もなく、また、Y車には構造上の欠陥又は機能上の障害はなかつたのであるから、同被告は本件事故につき自賠法三条但書により免責されるべきである。
そうであれば、同被告の責任を前提とする被告日動火災及び同大東京火災の責任もまた生ずる余地はない。
四 免責の抗弁に対する原告らの認否及び主張
争う。被告小幡が青色信号で進入したという証明は十分ではなく(本件については目撃者の証言があるが、右目撃時の状況が必ずしも明らかではない上、かかる事故の際の目撃は正確性を欠くのが一般である)、同被告の無過失は立証されていないというべきであり、免責の抗弁は理由がなく失当である。
仮に保博が赤色信号で進入したとしても、被告小幡は指定制限速度時速四〇キロメートルのところを三〇キロメートルも超過する時速七〇キロメートルで本件交差点に進入(衝突時でさえ時速五〇キロメートルの高速度)している。同被告が右制限速度か又は通常許容される範囲内の超過速度で走行していれば、X車を発見して直ちに急制動ないし急転回などの措置を採ることにより本件事故を容易に回避し得たものというべきである。したがつて、本件事故発生については同被告にも重大な過失があつたものというべきであり、免責の抗弁はやはり理由がない。
(乙事件)
一 請求原因
1 事故の発生
本件事故が発生し、原告の所有するY車が破損した。
2 責任原因
本件事故は被告の従業員である保博がその業務に従事中に赤色信号無視の過失によつて惹起したものであるから、被告は、民法七一五条一項に基づき本件事故により生じた原告の損害を賠償すべき責任がある。
3 損害
(一) 車両損害 一六五万円
Y車(西ドイツ・アウデイ八〇年式GLE―B八一Y)の本件事故当時における中古車市場価格である。
(二) レツカー代 三万〇一〇〇円
(三) 交通費 四五七〇円
本件事故当夜の帰宅及び日野警察署への出頭に要したタクシー代金
(四) 代車料 八万円
本件事故によりY車が修理不能となつたため、二〇日間にわたり代車を使用せざるを得なくなつたところ、右に要した費用は八万円である。
(五) 弁護士費用 一七万円
原告は、被告あるいはその保険会社である訴外住友海上火災保険株式会社が前記損害の支払を拒んでいるため、やむなく原告訴訟代理人に本訴の提起と進行を依頼し、損害額の一〇パーセントを支払う旨約束し、右相当の損害を被つた。
4 よつて、原告は被告に対し一九三万四六七〇円及び内弁護士費用相当損害金を除く一七六万四六七〇円に対する本訴状送達の日の翌日である昭和六一年五月一八日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による金員の支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1の事実は認める。
2 同2は、保博が被告の従業員であること及び本件事故が保博の業務執行中の事故であることは認めるが、同人の過失は否認し、同被告の責任は争う。本件事故は原告の制限速度遵守義務違反、前方安全確認義務違反等の過失によつて惹起されたものである。
3 同3は不知。
4 同4の主張は争う。
第三証拠
証拠関係は、本件記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりであるから、これをここに引用する。
理由
第一 甲、丙事件
一 請求原因1(事故の発生)の事実は当事者間に争いがない。
二 請求原因2の各被告らの責任原因は当事者間に争いがないところ、被告らは被告小幡に免責事由があると主張してそれぞれの責任を争うので判断する。
1 前記争いのない事実に成立に争いのない甲二、五号証、乙五号証の一ないし八(原本の存在とも)、八号証、昭和六〇年一二月六日当時における本件事故現場付近の道路状況を撮影した写真であることに争いのない同六号証の一ないし一〇、被告小幡昭夫本人尋問の結果(後記措信しない部分を除く)及び弁論の全趣旨を総合すると、
(一) 本件交差点は府中方面と乞田交差点方面とを結ぶ旧鎌倉街道(以下「旧街道」という)に鎌倉街道(以下「新街道」という)と桜ケ丘団地方面とを結ぶ道路(以下「本件交差点」という)とが交わる信号機により交通整理の行われている交差点である。また、旧街道、本件交差道路共にアスフアルト舗装され、中央線により片側各一車線に区分されている。前者は車道幅員が約七・七メートルで、両側に歩道が設けられ、乞田交差点方面に向かつて一〇〇分の一の下り勾配になつており、後者は車道幅員約六・七メートルで、両側に路側帯が設けられ、桜ケ丘団地方面に向い一〇〇分の一〇の上り勾配となつている。なお、本件交差点内は平たんであり、四方向にそれぞれ幅員約四・三メートルの横断歩道が設置され、旧街道の乞田交差点方面への車道には右横断歩道の約四・三メートル手前に停止線(以下「本件停止線」という)が、本件交差道路の桜ケ丘団地方面への車道上にもほぼ同様の位置に停止線がそれぞれ設けられている。
(二) 本件交差点の北東角(乞田交差点方面に向かつて左側の府中寄り角)には建物はなく、右角地一帯は駐車場となつているが、本件交差道路は前記のとおり新街道方面から本件交差点にかけてかなりの上り坂となつている上、旧街道沿いに右駐車場の土手が約〇・七メートル(前掲乙五号証の二実況見分調書本文中に一・七メートルと記載されている部分は〇・七メートルの誤記と思われる)の高さで設けられているため、本件道路の走行車両にとつて本件交差道路左側からの進入車両に対する見通しは極めて悪く(したがつて、本件交差道路の車両からの旧街道右方に対する見通しも同様である)、本件交差点手前わずか約三〇メートル近く(本件停止線からは約二〇メートル前後)まで接近して、ようやく左前方の本件交差道路の横断歩道に差し掛かる位置付近に達した車両を視認することが可能となる。
(三) 被告小幡は、Y車を運転して旧街道を制限速度の時速四〇キロメートルを大幅に上回る時速約七〇キロメートル程度で乞田交差点方面に向けて走行し本件交差点に差し掛かつたが、対面信号が青色を示していたのでそのままの速度で交差点に進入しようとしたところ、左斜め前方約三三・五メートル(本件停止線からは約二〇メートル弱)の距離を隔てて本件交差道路左側から横断歩道上に進入してくるX車を発見したが、瞬時自車の対面信号が青色であることから同車は停止するものと信頼し、わずかにハンドルを右に転把して進行を続けようとしたところ、同車が停止せずに進入してきたため、本件交差点のほぼ中央(以下「本件衝突地点」という)まで約二七・五メートル(本件停止線まで約一五メートル)の地点で急制動措置を講じたが間に合わず、右地点に達していたX車の右前部寄り側面に自車の左前部付近を衝突させた。他方、X車(車長三・九メートル)は対面信号が赤色を示している状態の下で、時速約二〇キロメートルで本件交差点に進入し、自車線の横断歩道を越える当たりから約四・一五メートル走行した地点でY車の衝突を受けて急激に左斜め横方向に約八・九メートル逸走し、本件交差点の南西角の新井方ブロツク塀に激突し、その際の衝撃で運転席側のドアが開き、シートベルトを着用していなかつた保博は車外に転落し、路面に頭部を強打して頭蓋骨骨折を伴う脳挫創により間もなく死亡した。
(四) 本件交差点の信号は、X車、Y車の各対面信号共に正常に作動しており、その作動周期はそれぞれ青色二〇秒、黄色三秒、赤色二七秒(全赤二秒)である。また、本件事故当時交通は閑散としており、天候は晴れで、路面は乾燥していた。
以上の事実が認められ、被告小幡昭夫本人尋問の結果中右認定に反する部分はその余の前掲各証拠に照らして措信し難く、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。
2 右事実によれば、本件事故は、保博が自己の対面信号が赤色を示しているにもかかわらず本件交差点に進入したことによつて発生したものである。なお、付言するのに、前掲乙五号証の二によれば、右信号の点については警察の実況見分時に右認定に沿う目撃者の証言が得られているところ、右は通行人が偶々目撃したものであるが、本件事故直前から直後にかけてのものであり、また、視認時の条件をみると天候は晴れ、目撃位置はY車の対面信号から約七〇メートル弱の地点というものであつて、信号の色を十分識別できるものであるから、右証言を採用できないとする合理的理由はないものというべきである。
ところで、交差点通行時に信号に従うべきは自動車運転者にとつて絶対ともいうべき基本的な交通法規上の義務であつて、本件のごとく夜間でかつ見通しの悪い交差点であつても、青色信号に従つて交差点に進入しようとする者は交差道路から信号を無視して進入してくる車両のあることまで予測して運転すべき注意義務を負うものではないというべきである。もつとも、自動車運転者は常に一般的な安全運転義務を負うことはいうまでもないのであるから、通常の前方注視義務の下で、信号無視の車両がすでに交差点に進入しているとか又は現に進入にかかつているなど、交差点内に衝突等の危険が具現化していることを認識し又は認識し得るような特段の事情があるときは、これを回避すべく適宜の措置を採るべき注意義務があることは当然のことといわなければならい。
そこで、右の観点から被告小幡の過失の有無を検討してみるのに、同被告は制限速度四〇キロメートルを大幅に上回る時速七〇キロメートル程度の速度で本件交差点に差し掛かつたのであるが、前説示のとおり信号無視の進入車両のあることを予測して運転すべき義務はないのであるから、道路交通法二二条一項に違反することは別として、右速度違反が即本件事故との関係で過失事由となるものではない。問題は、同被告が通常の前方注意義務を尽くしていれば本件交差点に進入するX車を視認し又は視認し得た時点すなわち同車との衝突の危険を具体的に認識し又は認識し得た時点において、速度の点を含めて同被告に本件事故との関係で過失と目すべき事由を見い出し得るかどうかである。
右の点につき更に検討を進めるのに、前記事実によれば、被告小幡がX車の交差点進入を認識し、衝突の危険を感じた時点では本件衝突地点までの距離は既にわずか約二七・五メートルであつて(右時点でのY車との距離は約二八・二メートルである。なお、同被告はその直前に本件交差道路左側の横断歩道上付近にX車を発見しておりその時点で両者の距離は約三三・五メートル(本件衝突地点までは計算上約三二・七メートル)であつたが、右時点ではX車が信号に従つて停止するであろうと信頼してわずかにハンドルを右に転把したにとどまつた同被告の措置に殊更非難すべき点は見い出し難いというべきであるから、右時点でX車の進入を認識し得たとして、同被告に衝突回避の措置を講ずべき義務を課することはできないというべきである)、前記速度を前提にすると、成立に争いのない甲六号証及び路面の状況等によれば、ごく一般的には時速七〇キロメートルの制動距離は約四三・四メートルであるから、予測し難い突然の危険に直面した場合適切な運転操作の期待には限度があることを考慮すると、もはや急制動措置やハンドル転把等の運転操作による回避は不可能であつたといつてよく、右運転操作に過失を見い出すことはできないというべきである。
そこで、次に、同被告がX車の進入を認識した時点で制限速度の時速四〇キロメートル程度の速度であつた場合における本件事故回避の可能性の有無を検討する。まず時速四〇キロメートル程度の走行がX車の進入に対面してどの程度の余裕ないしゆとりのあるものかであるが、右速度は秒速約一一・一メートルであるから、計算上はX車の進入を発見した地点から本件衝突地点に達するまでに約二・五秒程度を要する計算になるところ、右は経験則に照らし、車両走行中前方に発生した突然の危険に対処するための時間としては十分といえないことはもちろんであるが、逆におよそ余裕のない時間ともいえないものと思われる。このことに時速四〇キロメートルの場合のY車の制動距離を合わせて検討してみると、同速度の制動距離は一般的には約一六ないし一七メートルと知られているから、同被告はX車の進入を認識して制動措置を採ることにより本件衝突地点に達する前に停止できたか又はハンドル操作を合わせて行うことによりX車との衝突を回避し得た可能性がなかつたとは断じ難いものといわなければならない。
3 以上の検討によれば、被告小幡には本件事故発生につき速度超過の点で一般的な安全運転義務に違背する過失がなかつたとはいい難いこととなり、すると、その余について判断するまでもなく、被告らの免責の抗弁は理由がなく、失当といわざるを得ない。
三 進んで損害について判断する。
1 葬儀費用 九〇万円
保博の葬儀費用相当の損害としては九〇万円を認めるのが相当である。
2 逸失利益 二八〇八万七二七四円
保博には本件事故により相当の逸失利益喪失の損害が見込まれるところ、弁論の全趣旨及び経験則により右算定上の基礎年収を死亡時の満四九歳から満五五歳までは四四三万六六三七円、右以降六七歳まではその六割と認め、生活費控除は右の間を通して三〇パーセントとし、中間利息控除につきライプニツツ方式を採用して同人の死亡時における逸失利益の現価を算定すれば、次式のとおり二八〇八万七二七四円(一円未満切捨)となる。
(一) 四四三万六六三七円×〇・七×五・〇七五六≒一五七六万三〇一六円
(二) 四四三万六六三七円×〇・六×〇・七×六・六一三九≒一二三二万四二五八円
(三) (一)+(二)=二八〇八万七二七四円
3 慰藉料 一九〇〇万円
本件事故の態様、保博の年齢、家族構成、本件審理の経緯その他本件に顕れた一切の事情を考慮し、同人が本件事故により被つた精神的苦痛に対する慰藉料は一九〇〇万円と認めるのが相当である。
4 過失相殺 八割
前記二に認定説示したところから明らかなとおり、本件事故は保博の見通しの悪い交差点における信号無視に原因するものであつて、その過失は道路交通法規の基本に違背する極めて重大なものというべきであり、少なくとも八割の過失相殺を行うのが損害の公平な分担の理念に適うものというべきである。すると、右過失相殺後の保博の損害総額は九五九万七四五四円(一円未満切捨)となる。
5 損害の填補
保博の過失相殺後の損害総額は九五九万七四五四円となるところ、本件自賠責保険から原告らに対し一七五〇万円が支払われ、これが右損害の填補に充てられるものであることは当事者間に争いがないから、結局右損害は填補し尽くされ、もはや保博には残存損害はないものといわなければならない。
四 すると、その余について判断するまでもなく、原告らの本訴各請求はいずれも理由のないことが明らかというべきである。
第二 乙事件
一 請求原因1の事実及び同2のうち本件事故が被告の従業員である保博の業務執行中に生じたものであることは当事者間に争いがなく、また、本件事故が同人の赤色信号無視の過失により惹起されたものであることは先に甲、乙事件について認定説示したとおりであるから、被告は民法七一五条一項によりY車の車両損害を賠償すべき責任があるというべきである。
二 そこで損害について判断する。
1 車両損害 一六五万円
前掲乙五号証の二、弁論の全趣旨により成立を認める甲七号証及び原告(甲事件被告、以下「原告」とのみ表示する)本人尋問の結果によれば、Y車は原告の所有に係るアウデイ八〇年式GLE―B八一Yであり、本件事故によりエンジン部等に重大な損傷を受け、いわゆる全損扱い相当の破損を被つたことが認められ、右認定に反する証拠はない。
ところで、自動車の全損扱いの場合の損害評価額は、当該車両について個別に適正な評価額と認められるものが明らかにされている場合を除いては、同程度の車両の再取得に要する費用とするのが相当というべきところ、右はいわゆるレツドブツクによる中古車市場価格に求めるのが合理的というべきである。本件については、前掲甲七号証によれば一五九万円との評価が出されているのであるが、右は損傷部位ごとの修理見積り等の具体的裏付けを伴つているものではなく、評価額を一六〇万円以上と概算した上で、残存価格を一万円としてこれを控除したにとどまるのであつて、直ちにこれを適正妥当な個別評価額を明らかにしたものとはいい難く、したがつて右レツドブツクに従うのが妥当というべきである。なお、官公署作成部分につき争いがなく、原告本人尋問の結果によりその余の作成部分の成立を認める乙四号証中に同車の損害額を一六〇万円と自認するかの記載があるが、これは前掲乙七号証に窺われる被告側の見解に依拠するものと推認されるから、前記判断を左右するには足りない。
すると、成立に争いのない乙一号証の一、二(レツドブツク)によれば、Y車と同型・同年車の本件事故当時における中古車市場価格は一六五万円と評価されているのであるから、本件事故による同車の損害額は一六五万円とするのが相当というべきであり、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。
2 レツカー代 三万〇一〇〇円
原告本人尋問の結果及びこれにより成立を認める乙二号証の一、二によれば、本件事故により原告がレツカー代として三万〇一〇〇円を支払い、右相当の損害を被つたことが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。
3 交通費 四五七〇円
原告本人尋問の結果及びこれにより成立を認める乙三号証によれば、原告が本件事故のためタクシー代相当の損害として四五七〇円の損害を被つたことが認められこの認定を左右するに足りる証拠はない。
4 代車料 八万円
原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、原告がY車の全損により代車を求める必要が生じ、その費用として八万円程度を支払い、右相当の損害を被つたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
5 過失相殺 一割
甲、丙事件における認定説示から明らかなとおり、Y車の破損等前記損害発生については、原告にも速度超過の点で安全運転義務違背の過失があつたものというべきではあるが、そもそも本件事故は交差点におけるX車の信号無視による事故であること、制限速度は時速四〇キロメートルではあるが、夜間交通閑散な状態下ではある程度の速度超過は許容限度とみざるを得ない実情があること(右許容限度をいくらとみるかは問題のあるところであろうが、例えば時速四五ないし五〇キロメートルすなわち秒速約一二・五ないし一三・九メートル程度で走行していれば、一般に制動距離は約二〇ないし二四メートル程度と知られているところ、右程度で走行中約二七・五メートル前方に突然信号無視の進入車両を視認した場合の狼狽等を考慮すると、原告が果たして適切な回避措置を採り得たかどうかはかなり疑問があるところというべきであろう)、右事情に本件事故から原告の損害回復までの期間及び経緯等本件審理に顕れた諸般の事情を踏まえた上で、損害の公平な分担の見地から考慮すると、本件において原告に対しては一割の過失相殺を行うのが妥当というべきである。右は保博に対する過失相殺割合と数字上の符合をみないが、過失相殺は責任論における過失割合の分担そのものではなく、損害発生に対する種々の異なる要素を比較考慮した上で損害の公平な分担の理念に立つて行う損害算定の手法であり、矛盾するものではない。
すると、被告の負担すべき損害賠償額は一五八万八二〇三円となる。
6 弁護士費用 一五万円
本件事案の難易度、認容額に紛争解決までの経緯等本件審理に顕れた諸事情を考慮すると、本件事故と相当因果関係のある弁護士費用相当の損害は一五万円と認めるのが相当である。
第三 よつて、甲、丙事件につき、原告らの各請求はいずれも理由がないから失当として棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して、乙事件につき、原告の請求は一七三万八二〇三円及び内弁護士費用相当損害を除く一五八万八二〇三円に対する本訴状送達の日の翌日であることが本件記録により明らかな昭和六一年五月一八日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから認容するが、その余は理由がなく、失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条を、仮執行宣言につき同法一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 藤村啓)